初心者でも証券会社がはじめられる

ゴルフでも、「K電子は、女子の新人戦のプロアマ対抗戦をやらせていただいていますが、そういう時でも、私は外でやります。
絶対にその輪の中には入らない。 協賛きれている会社のご家族の方が、プロァマ戦などでも、ご一緒にプレーされる会社がありますけど、うちはそういうスタイルはとらないです。
娘たちも絶対会社に関わりません」とTは明確に言う。 「会社を娘たちに継がせる気は全くありません」と。
父のSはK(現J)の保線関係の職員だった。 子供の頃は貧しかった。
だから、母のTも、主婦業の傍ら、魚網を作る会社へパート勤務。 共に忙しく立ち働いていたが、お客さんが来ると、何はさておき、お金がなくても、家族全員、心で歓待した。
「親父の同僚が、家へしょっちゅうお見えになり、家族ぐるみでお付き合いをさせていただくこともありました。 何といいますか、ざっくばらんに、本当に人を受け入れやすい、面倒見のいい雰囲気が家にはありました」特別、親にそうしなければいけないと言われたというわけではなかったが、兄弟全員でお客を歓待するという、そんな雰囲気がT家全体にあった。
それをT兄弟は、普通だと思って育ってきた。 どんなお客に対しても、家族全員で歓待することが大切なんだということを、理屈抜きで身につけていた。
Tの両親は、そうやってお金では買えない心や無形のものの大切さを教えたと思われる。 これが、伝統になって、今でもTの家ではそうだ。

3人の娘たちが結婚するまでは、小きい時から、社員やお客が来ると、どんなに遅くても、夫人の節子と一緒に家族全員で歓待した。 Tが大事にしている新聞の小さな切り抜きがある。
これが、ざも自然のように行われていた。 Tがいなくても、社員たちが勝手に家に来て、お酒を飲んだりカラオケなどをしたして過ごす。
Tが遅く帰ってきて、社員たちが「お帰りなさい」ということがしよそんな時も、「お誇旦とい雷2感じで、社員たちの挨拶を満面の笑みをたたえながら迎えこのように社員が来てくれることが、また何はなくてもありあわせのものでも、社員たちを家族が一生懸命歓待してくれる心が、無性に嬉しいのだ。 両親から受け継いだ遺伝子かもしれない。
社員は全くの家族なのだ。 もうセピア色になってしまっているが、M小学校の校長先生から母が表彰状をもらっている写真だ。
今から30年以上前の切り抜きだ。 由来はこうだ。
K電子がスタートして、2、3年たった時のこと。 会社が儲かってきて、創業の翌年には、早くも倍以上売り上げ、億を超えた。
そんな時、なぜか寝ている間に、お金につぶされる夢を見ることが、4、5日続いた。 毎晩寝るとそういう夢を見る。
本当にしんどかつた。 さすがに、「これはおかしいな」と思うようになった。
その時、たまたま母が来ていた。 「お金につぶされる夢を見て、夜、目が覚めちゃって弱っていてね」と相談した。

母はしばらく考えて、「お前が今あるのは、少なくとも、そんな夢を見られるようにまでなったのは、小学校のW先生がいて、お前の頭をなでながら前向きな話をしてくれたからだよ。 ああいう先生がいる学校があったお陰で、今があるのだから、もしそんなに悩んでいるのだったら、小学校に何か寄付したらどうだい」と言った。
目が覚めるような思いがして、「お袋、それいいね」と言った。 「申し訳ないけど、お袋が窓口になって、校長先生にちょっと相談してみてよ」と頼んだ。
当時で百万円ぐらいのピアノをM小学校に寄付したところ、小学校で贈呈式をやるということになった。 Tは、感謝状をもらうために寄付したわけじゃないからと困惑した。
寄付をしたら、と母に言われて、「なるほど良いことだ。 本当にお世話になった」と即座に思っただけで、そんなところに行くような大それたことをしたわけではないと思い、母に代理を頼んだ。
「お袋、代わりに行ってくれよ」Tの中には、もしかすると親孝行になるかもしれないという気持ちもあった。 それが写真に撮られて新聞に載り、母が気を利かせて、切り抜きを送ってきた。
その一年後には、中学校にも楽器の太鼓だとかトランペットだとかを寄付した。 なぜ夢を見たのかとあらためて考え直したとき、もしかして、会社が儲かって、知らず知らずのうちに自分が慢心し、公私混同しそうな状況に陥っていたので、自分の良心が警告を発したのではなかったのかと反省した。

母はこんな味わい深い歌もTに残した。 その時のことを思い出して感謝をこめて作った歌だ。
Tの母は、そういう感謝心の強い人だった。 「どんなに苦しくても、自分のことだけを考えるのではなくて、人の面倒を見るということが大切だよ、実はこんなことでお世話になったよ、という話を小さい頃から聞かされこの言葉は、親戚も面倒を見てくれなかった時に、息子の同級生というだけの付き合いの近所のお百姓さんが、お米ができると届けてくれ、お餅をつくとお餅を持ってきて母はそうやって自分の思いや心の大切さを、小さい頃から学校の先生のような教育者的発想でTたちに伝えた。
それがK電子グループの企業姿勢にも表れている。 れていた」とTは振り返る。
「だから自分たちから義理を欠くようなことは、私も、私の兄弟もしたことはないと思います」V電機時代に、杉並の大宮8幡にある4畳半のアパートの部屋に弟のYと一緒に住んでいた。 そこでは、一時期、弟のYと同級生の大瀬戸とその弟の4人で住んでいたこともあったが、何とすべてTがお金を出して養っていた。
布団は人数分ないので、新聞紙を敷いて寝ていた。 麻雀でもなんでも、ぞろぞろと彼らがついてきた。
学校の後輩が遊びにくると、いつもにこにこしながら、「よく来た、よく来た」と心から歓迎するのが、Tだった。 今、石川県の小松市を中心に、何店舗もカレーの店を展開している今度孝は、Tのことを一生の恩人だという。
今度はTの小・中学校の一年後輩だった。 今度がTの下宿を訪ねたら、「前のおすし屋さんで好きなだけ食べてこいよ」と、安サラリーマンなのに、ご馳走してくれた。

貧乏なのにどうしてあんなに人の世話ができるのだろうかと、Tのことを不思議に思った。 1966年に、今度がヨーロッパヘコックの修業に行こうとした時の話だ。
兄弟同様にしている後輩なので、友達と一緒に横浜まで見送りに行った。 今度は、IとNが出資しているということで当時有名だった4谷のステーキレストランで働いていて、海外で働く夢を持っていた。
Tはびっくりした。 今度はお金がほとんどないという。
持っていた財布の中身を全部さっと渡しながら言った。 「がんばれよ。
お金はいくら持っていても困らない。 霞別代わりに、少しだけど持っていってくれ」Tも、22歳の貧しいサラリーマンだったが、兄弟同様の今度に、財布の中身全部を渡して、はなむけにした。
当時で3万円ぐらいだったというが、Tの初任給が6千円だったことを考えると、大変な金額だった。 今度もその金額とTの男気には感動したことだろう。
2人はその縁もあって、未だに兄弟みたいな付き合いをしている。 その後、今度の娘がK電子に勤めていた時期もあった。

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